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独白

くだらねえよな。
くだらない。
雷が去った後、雨の音も途絶えたその瞬間にぽつりともらされた声。

結局。結局死か。

振り向くと彼は畳の上にどうと横たわり、黄色く枯れた畳を爪の先でいじくっていた。

「気に入らなかったかい」

低い机の上に随筆がほったらかされている。
先ほどまで目元を赤くしながらそれを読んでいたのは彼だ。

やっぱり、90年生きようと、100年生きようと、一人の人間が得られるものなんてたいして知れているんだな。
どんな死を前にしても、人の血がたっぷりと流れるのを見ても、人は結局うまいものを食って、
湯に浸かって、人は素晴らしいと言う。

「うん」

人の穏やかな死しか知らなくて、人を殺したこともない私の持っている感情なんて、怒りなんて、人間への称賛なんて、もっと嘘だ。
嘘だ、嘘っぱち。
まがい物だよ。

「うん」

傍に腰を下ろす。顔を覗き込むと意外に彼は泣いていなかった。

私の感情なんて嘘だよ。嘘っぱちだ。
……こう言うのだって、お前に慰めて欲しいからだ。

とうとう彼は顔をくしゃりと歪めて涙をぼろぼろぼろぼろ流し始めた。

「慰めて欲しいかい?」

顔を覗き込んだまま問うと、彼は真っ赤に充血した唇をわずかに開いて、それからゆっくりと首を横に振った。

僕は立ち上がると、障子を開けた。

どこに行くの?

「小便」


あれが出て行った瞬間、ざっと雨の音が戻ってきた。
起き上がってぬるい茶をすする。

結局、狂えもしない。

一人きりの部屋で涙を拭った。


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泣かない神

不幸をくれないか、と陰気そうに雨神は呟いた。
いや、呟いたのではないだろう。それが彼の話し方なのだ、呟いたのではなく、私に声を掛けたのだ。堂々と。
「無茶を言うなよ」
呆れ含みの声が最後には思わず笑ってしまった。疫病神に不幸を寄越せだなんてと言うと、疫病神、とまた陰気な声が私を呼ぶ。
「じゃあお前の雨をひとしずくくれよ」
「できるわけがない」
憮然とした声。表情は変わらないものの、この消えそうな声は案外と表情豊かだ。
「くるしい……」
ふうん、と私は意地悪い気持ちで雨神を見た。
晴神の肌が焼けてきたと聞いたのはもう少し前だ。外界はそろそろ干ばつだろうか。そうずればまた純粋な不幸は減る。かといってこいつを苦しめて号泣させればまた災害だ。
雨神は片手で顔を覆う。苦しげな息を吐いてはみせても、涙は出ないようだ。
「泣けるときに泣けばいい。別に誰も強制などしていないさ」
もっと苦しめよ。
意地汚い気持ちで雨神の下まぶたの粘膜に親指の腹を押し付け、濡れたそれをこすりつけるように彼の頬をなぞった。
「どうせ人間たちは雨乞いやら何やらでかわいそうな生贄を捧げてくれる。晴神の苦痛には泣けぬのに、生贄に泣くのだからお前は大した性格だよ」

神の庭は不幸に満ちている。
それで更に不幸を求めるなどと、どだい無理な話だ。
呪わしい、と今度こそ呟いた雨神に、疫病神は美しい顔を歪ませて愉しそうに笑った。

ゆきのにおい

寒いね、と言いながら、カーエアコンをつけた瞬間に君の呼吸が変わった。
すぅっと、溶けるように透明になり、やがてそれは元に戻った。
理由は問わなかった。それはとりたてて聞くほどもないほど感覚的で、ささいなものであったから。
ただ、会話が途切れたことに気づいたのだろう彼が口を開いた。

「不思議だね」

ウィンカーがカチカチと鳴る。

「実に、不思議だ」

私はハンドルを大きく回しながら、ふしぎ、と呟いた。

「暖房の匂いを嗅いだ途端に雪を思い出したんだ。雪が降っている街を、運転しているんだ。
何年前の景色だろう。でも、確かに過去の景色なんだ。空想じゃない。
不思議だね。私の故郷の思い出はいつも冬なんだよ」

へぇ、とそれが平坦なものに聞こえたのかもしれない。
君は薄くため息をついた。

「君には分からないかもしれないな、このくには雪がほとんど降らないから」

彼の故郷は一年の三分の一が冬なのだと、聞いたことがあった。

「雪の匂いは思い出せない。でも、油の混じったような暖房の匂いは、よく覚えている。
それで思い出すのはストーブではなくて、雪なんだ。
きっとね、」

うん、と私は声に出した。彼の声が嬉しそうに温度を上げてているのが分かったからだ。

「雪の降る世界で、火にあたることが最もしあわせなことだったからだ。
朝早く、猫と一緒にストーブの前でまるくなって体をあぶるんだ。
家の中が温かくなって、屋根の雪がどさっと落ちる。
それでまた雪が舞うんだよ。私はのんきにそれを眺めている。
油の匂いがするんだ。雪の匂いじゃない。」

私は、彼の思い出の姿かたちをはっきりとは空想できなかった。
しかし、それが「しあわせ」であると、私は理解できた。
赤信号で車が止まる。君は小さくあくびをした。

指きり

「人はひとの中に唯一の自分を創ろうとするだろう?
僕はね、それに疲れてしまったんだよ
やはり夢を追いかけていた方が良かったのかな
でもあれは実際、相当に勉強しなければいけないんだ」

夢って、なんですか

「といっても、無理だと宣告されるのが嫌でね
人はひとの人生に対してはっきりとものを言わないだろう?
時々すっぱりと向いていないよ、と言う奴もいるけどね。」


わたしの呟きは声にならなかったらしい。
叔父はぬるくなったアイスコーヒーを傾けながら、誰か別のひとに笑っている。
その人は、いますよねぇ、と頷いている。
頷きながら、台所の煮物の加減を見てくるとさっさと立ってしまった。

でも、僕には言ってくれないんだよ。
彼の中には、「僕」がいないから。

叔父はそうとは言わなかった。
でも、ふと、諦めたように笑った顔を見て、勝手に想像しただけだ。

きっと叔父の中にも唯一の「わたし」はいないんだろうな、と思いながら、
わたしは実にこどもらしく叔父にすり寄り、最近読んだ小説の話をした。
叔父はにこにことわたしの話に頷き、わたしの問いにうーん、と首をひねりながら、そうやって一生懸命話を聞いてくれた。

「今度、面白い御本を教えてください」

そういうと彼はやはりにこにこと「分かった」と頷いた。

「約束です」

わたしは叔父の笑顔の中心に小指を突きだした。
ひとの中に「自分」を少しでも残しておくために、約束はとても有効な手段だと、わたしはその時信じていたのである。

彼はしばらく指を見つめ、神妙な顔つきで思案した挙句、小指をわたしの小指に絡ませた。
のろのろとしたその動きに、わたしは未知の昆虫に触れる幼児の風を感じた。

「約束だ、きっと……」

その時の、硬い皮膚の感触と、思いのほか強い力で絡んだ痛みを通して、叔父はわたしの中に埋め込まれたのだ。
叔父は、わたしの感情や愛しさを感じる部分に、自分がいることを知らない。
わたしはそれを伝えるきっかけを、すっかり逸してしまった。

ときを経て

君の上を向いた横顔は、連峰に似ている。
生え際から眉にかけてはなだらかな弧を描き、そこから急な凹凸を迎え、やがて最高峰に達する。その後もつんとした形の峰が、形よく並んでいる。

上唇を舐めた。ソファの上に仰向けになって本を読んでいる。読書には辛い体勢だろうに、君の視線はやや上方に固定されたまま、時折り瞬きをしている。
遠く蝉が聞こえる室内で、ごくりと喉が鳴る音が妙に響いた。傍らのテーブルに置かれた麦茶は、まだ一口も手がつけられてはいなかった。

額には汗が浮いていた。
夕日を反射するそれが見る間に集まって、君のこめかみを走る。


昔はそれなりに、と思わせる容姿だったが、その汗に感動する者はもういないだろう。
在りし日の君の影が君に重なり、一致する前に霧散する。
柔らかい木の芽を思わせた横顔は、歳を経て、
夕闇に立つ山々を思わせた。

風に夜を感じて立ち上がる。
僕は窓を閉めた。君の指が、頁を繰る音が聞こえた。